会社を、人づくりの場に。
職場を、社員が輝くステージに。

~代表・平林拓郎のプロフィール & 起業から今日までの歩み ~

「会社は人が育つ場である。」

これがオールフロンティアの企業ポリシーです。
なぜ私たちは数字より、「人づくり」にフォーカスするのか。

その理由を、代表・平林拓郎へのインタビューをもとにノンフィクションでまとめてみました。

少し長いですが、どうぞ最後まで読んでくださいますようお願いします。

目次

1. 中学野球で日本代表選手。野球漬けの高校生活。

オールフロンティア代表取締役、平林拓郎は1969年、東京都豊島区生まれ。幼いころから親の仕事の都合で関東圏内を10ヶ所以上も引っ越した経験を持つ。

小学時代から埼玉県内の少年野球チームに所属。中学時代には世界大会の日本代表メンバーにも選ばれた。ポジションはキャッチャー。チームのリーダーとして活躍する。

高校は野球推薦で秋田県の名門校に入学。「まるで実験用のモルモットのような」(平林)、野球漬けの日々が始まった。

それから半年ほどたったころ、予想もしない事態に襲われる。

「肩を痛めてしまったんです。気候が合っていなかったのかもしれませんが、当時の私の身体はまだ中学生で、高校生を相手に無理をしたのでしょう」

キャッチャーの「命」とも言える肩の不調で、平林はレギュラー争いから脱落してしまう。野球人生で、はじめての挫折だった。

「正直、腐りかけましたね。オレ、何のために故郷を離れてここにいるんだろうと。でもそれ以上に、チームの役に立てない自分が不甲斐なかったですね。何かで役に立ちたい。そんな思いが、自分を少しずつ変えていってくれたような気がします」

平林はやがてそれまでに味わったことのなかった境地に立つ。それは、「縁の下の力持ち」となってチームに貢献すること。

後ろから背中を押す側にまわりチームを支える「裏方」をやってみようと決意。試合中、チームに勢いがなくなれば率先して大声で鼓舞する。成績が低迷している選手にはそっと声をかけた。平林は3年間、フィールドで活躍することはできなかったが、いつも監督やコーチの横で、個々の選手の個性が生かされる環境を整え、一つにまとめていった。そのおかげで、チームは甲子園の舞台で活躍する有名校になっていった。

平林は、このとき身につけた「組織を後から後押しする感覚」が、いまの経営理念の原点になったと振り返る。

2. 野球推薦で大学へ。心折れかけた20代。

野球に明け暮れた高校を卒業し、千葉県の大学に進む。高校と同じく、野球推薦での入学だった。だが、大学の練習にはほとんど参加することがなく、時間が過ぎていった。

いつしか、平林はいわゆる「幽霊部員」と化してしまう。ひたすらアルバイトに明け暮れた。だが、一生をかけて打ち込めるものには出会えなかった。

卒業後は親戚の営む町工場に就職。だが、1年ほどで飛び出してしまう。それからは自分に合った職を見つけようと様々な職に就く。寮がある不動産会社に就職したり、花屋の流通の仕事や小売りなどの仕事に就いた。しかしどれも1年足らずで退職。何をやっても続かない自分に、「オレって一生ダメなのかなぁ」と、心が折れかかっていた。

自信を失いかけていた、27歳の頃、平林は突然、交通事故に遭ってしまう。自動車の運転中、クルマに追突され、軽いケガを負った。が、予想していたより治療が長引いてしまったことで、数ヶ月前に入ったばかりの花屋の仕事を失うことになる。

この事故のおかげで平林はこれまで知らなかった世界を垣間見た。自動車を巡る事業者の対応の遅れや法令、業界慣習の未整備の実態を目の当たりにしたのだ。

「事故処理の後始末や保険の適用については、すべて保険に詳しい知人にお任せしたのですが、その方が辣腕で、すごい勢いで、私に有利な形で解決してくれたんですよね」

病院を退院して間もなく、銀行口座に20代会社員の年収ほどのまとまった保険金が振り込まれていたという。

「車の世界って、わりと大ざっぱなんだな、と思ったのを覚えてますね」

高校の後輩が「一緒に事業をやりませんか?」と声をかけてきたのは、ちょうどその頃だった。後輩は不動産のデベロッパーをしていた。

平林は、まさか自分で事業をやることなど考えたこともなかったという。だが、後輩から「営業には自信があります。先輩はただ机に座ってじっとしてくれればいい」と諭されて、手元にあった保険金を元手に、なんとなく始めることになった。

何の事業を手がけようかと考えるうち、ふと、自らの事故の経験が頭をよぎる。

「わりと大ざっぱなしくみで、大金が動く世界だったこともあって、自動車業界にはチャンスがあるんじゃないかと、単純に思っちゃったんですよね」

事故を起こしたばかりだったこともあって、「信頼できる中古車業者があったら、自動車ユーザーに喜ばれるんじゃないか」と、ふとそんな思いが浮かんだという。

「ホントに適当もいいところですが、自分の事故の体験から自動車業界の大ざっぱな面を垣間見て、ちょっとした正義感と、ちょっとした“下心”で、中古自動車販売業を選びました。でも、僕も後輩も車のことはほとんど知りませんでした。無謀な挑戦でした(笑)」

車をどこで仕入れていいかさえ知らない2人。とにかく名刺を作ることにした。こうして1996年、中古車販売事業、㈲フロンティア(当時)は誕生した。

3. お客様の一言にひらめいて、日本初のスバル専門店に。

「最初にやったことは、笑っちゃいますけど、中古車情報誌を一冊買うことでした。ちょうど後輩の友人が車を欲しがっているという情報が入ったんですよ。そこで情報誌を買って、適当に希望の車種を見つけて、業者に電話したんです。何にもしらない中で、たったひとつだけ、知っていた業界用語が『ギョーハン(=業販)』。この言葉をひたすら連呼して、なんとか売ってもらったんです」

「業販」とは通常、業者間でやり取りすることで、その際の値段が業販価格。つまり、プロどうしの売買であることを強調したのだ。

「おそらく先方は、こちらをプロとは思わなかったでしょうね(笑)」

ちなみに、その時、車を買ってくれた第一号の客は、いま、オールフロンティアで働いている。

こうして船出を切ったオールフロンティア(㈲オートフロンティア・当時)。だが、強気だった後輩はわずか半年で会社を去る。ぽつんと一人取り残されてしまった平林は、その後の身の振り方に迷う。

変化のきっかけが訪れたのは、ちょうどその頃だ。

「あるお客様から『スバルを探しているんだけど、なかなかないんだよ』と相談されたんです。その人は、全国の中古車屋さんを歩いて探してもなかなか見つからないというんです。それを聞いて私は、『コレ、チャンスじゃね?』って感じで閃いたんですよ」

スバルの国内シェアは、多少の変動はあるが、ほぼ2%程度で推移している。お客様にすれば、2%の車を探すのだから大変にちがいない

「だったら、スバルファンのためにうちの店で集めてきてあげよう!」

この事業がスバルファンのクチコミで拡がり、クルマは仕入れた先から売れていく。これをきっかけに、スバル車の無事故車だけを厳選して扱う専門店「オートフロンティア」をオープン。埼玉県の春日部を皮切りに、越谷、仙台、千葉、秋田、広島、横浜と全国に支店を拡大していった。

「今だから、言えることなのですが、スバルのクルマのエンジンは他メーカーのものとは大きく構造が違っています。水平対向エンジンといって、ピストンがフラットに、つまり横向きについているんですね。だからこそスピードが出る、いわゆるいい走りを実現してくれるのですが、その反面、メンテナンスが大変でオイル漏れしやすい。だから、クルマ業者ならなるべく、スバルのクルマは扱いたくない、というのが常識だったのです」

道理でそれまでスバル車販売店はなかったはずだ。が、平林がそのことに気づいた時にはもう遅かった。

もともと「走り」を追求する、マニアのファンが多いスバル車。それに特化した専門店ができたとあって、たちまた全国のクルマファンの注目を集めた。しかも弊社はあえて「無事故車限定」と謳った。

それは自分が事故に遭った経験から素直に「信頼できる中古車業者が世の中には必要だ」、と思ったからだった。

予想していたとおり、人気のレガシィを中心に、扱うクルマは売れに売れた。店頭に並べる先から売れ、仕入れが追い付かないほどだった。そこで、関東だけでなく関西のオークション会場にも平林自ら足を運び、スバル車を仕入れに行ったのである。

「あの頃は、何カ月も東京に帰ってこれないような状況でした」

こうして90年代の終わりから21世紀をまたぐ5~7年もの間、息つく暇もないほどの繁盛に恵まれる。会社は売上げを飛躍的に伸ばし、平林は先頭に立って、社員を引っぱっていた。「とにかくオレについて来い」の経営を続けていた。

4. 転機。なぜ人は働くのか?会社の役割とは何か?

階段を駆け上るように拡大していた事業が踊り場にさしかかったのは、2005年あたりのことだった。経営に危機を感じまでではない。だが、それまでの勢いは失速。自社の「高度成長期」の終焉を感じざるを得なかった。

「一本調子で上がっていたころは、毎日がお金、お金でした。しまいには車がお金に見えていました。でも、商売が落ち着いてみると、なんとなく、『このままでいいのかな』って思うようになったんです」

平林自身にとっても、不思議な心境の変化だったという。遮二無二、売って来た結果、それなりの利益を上げることができた。だが、このままお金儲けを極めたところ、いったいそれが何になるのだろう。いままで考えたこともなかったような感慨に、押しつぶされそうになる。

華やかな野球エリートとして生活が一転し、不遇な時代に突入。大学を卒業しても、定職すらつけず、一時は将来を悲観。事故でケガまで負った。そんな挫折感を払しょくするべく、ひたすら事業に打ち込んできた。そして、当面の生活の心配がないところまで走りきったとき、ふと胸に押し寄せてくる疑問。そもそも会社の役目とは何なのか。このまま稼いでいって、どこに行きつくのか……。次々に頭の端に浮かんできて離れない。

「そんなことをよく考えるようになったある日、会社というのは、本来、お金を稼ぐ場だけれども、もっと広く深く捉えてみれば、人生を学ぶ場ではないか、という考えが頭の中を占めるようになったんです」

人は、社会人になった瞬間から、24時間のうちもっとも多くの時間を仕事に費やすことになる。もし自分の仕事に価値を見いだせなかったら、人生は虚しい。 では、人にとっての仕事の価値とは何か?

そんな根本的な疑問を長い間、抱えていた平林が行きついた答えは、「人が成長できること」だった。人間がもっとも多く費やす時間なら、そこに喜びがあり、人間の成長がなければ不幸だ。そう思い始めたのだった。平林は、次第にそれまでのやり方に限界を感じるようになる。

「あの頃、うちの会社で働いていた社員たちは、いわば僕の操り人形でした。僕の指示に従って、その通り動いていただけです。それでも会社が儲かっていたから、それは正しいやり方だと思っていました」

当時をふりかえって一番、反省しているのは、当時の20代の若者たちに、高額な報酬を与えてしまったことだと平林は話す。

「当時は、それが社長としてカッコいいと思っていたんです。でも、彼らには、高額な報酬を受け取れるほど、実力がついたわけではなかった。ただ、僕のいうことを聞いて、簡単な仕事をしただけ。それで大金をもらったなら、仕事というものをナメてしまうし、世の中なんてチョロイもんだと思っても無理はない。若い時分にコツコツ努力して、腕を磨き、人間を磨くというもっとも大事なことを覚えなければ、年齢を重ねるだけキツくなる。そのことを思うと、ホントに申し訳ないことをしてしまったと反省しているんです」

二度とそれを繰り返さないためにも、若い人たちを真剣に育てよう。仕事を通じて育っていくステージを作ろう。そう平林は決心した。高額な報酬が得られるだけの価値を持った人間を育てようと誓ったのだった。

「仕事とは何か、働くとは何かということを教えてあげたい」

それは、チームの後ろに立って背中を押す自分に変わった、あの高校時代の自分の境地だった。いまでは、「天は、若い人を育てる環境をつくるために、これまでの事業で私にささやかながら資金を蓄えさせてくれたのではないか」とさえ感じるようになったという。

「目指すのは、人生の学校」

それが「会社とは何か?」という問いに対する平林の答えだった。

一方で、経営者として、これからの事業の方向性についても思いを巡らせていく。

会社のさらなる飛躍を考えた時、自分たちの力をどこに持っていくのがよいだろうか。じっくりと考えた結果、自社の強みがおぼろげに見えてきた。それは、高額商品でありながらも仕入れ→値決め→販売というサイクルを、極めてスピーディに回してきた実績だ。

「やっぱり僕らはそのサイクルを最大限に生かした、リユースの市場で、新しい境地を作ることに可能性を見出していこうと思ったんです」

5. 会社の目的とはただ一つ、人を育てること。

「私が若い社員たちに教えてあげたいのは、生きることと、働くことの間にある繋がりなんです。仕事というものは、真剣に打ち込めば打ち込むほど、楽しくなるし、充実した気持ちになることができます。そして、何よりも、人間的に成長することができる。人は、そのことがわかっていないと、働けないと思うんですよ」

平林自身、そのことがわかるまで、どんな仕事をしても1年と続かなかった。

「働く意味を教える。それこそが本来の会社の役目だと考えています。そして、それができる会社か、それともできない会社かで、伸びる会社とイマイチな会社とに分かれてしまうと思うのです」

こうして数字で成果を測らず、人の成長度合いで測る、オールフロンティア独自の考え方が作られていった。 「いまは会社を大きくしたい気持ちより、良い会社にしたいという思いです。では、よい会社とは何かと問われれば、いい人がいる、いい人が育つ会社だと私は即答しますね」

オールフロンティアの価値観はふつうの企業とは真逆だ。数字より人の成長を重視。社員には数字を求めないが、人としての成長を厳しく問う。

「いくらトップセールスを上げたとしても、お客様や仲間、あるいは社会に対して、誠実さや素直さを欠いていたら、その行為はかえってマイナス。仕事は自分の生き方でもありますから」

生き方に直結するからこそ、厳しく問う。数字を上げるより、じつははるかに厳しい。

「私は思うのですが、数字で人のお尻を叩く、というのはバカげています。そのレベルで事業をしていこうとしてもすぐに限界が来るでしょう。人が成長すれば、数字はついてきますよ。だっていい人が現場にいれば、お客さんが増えるのは当たり前でしょう。数字は人の成長に伴うものですよね。だから何よりも、人の成長が第一なんです」

6. そして、これから。若さで波乱の時代を制す。

オールフロンティアでは、07年から新卒入社の採用を開始している。この定期採用にあたっては、新卒社員がより多くのことを学べる環境を社内につくるために、異業種にも積極的に参入。多彩な事業グループを形成してきた。

今後、リユース事業と自動車関連の事業力を入れつつ、飲食業、教育業のほか、未知の分野にも飛び込んでいこうとしている。

「中途社員は即戦力として必要不可欠な存在ですが、会社に文化を育てるのは、新卒社員なんですよね。生え抜きの社員をじっくり育てていくことで、オールフロンティアの文化を育てていきたいですね。新卒社員たちには、スキルやキャリアはなくても、個性は備わっています。その個性を最大限、発揮させてあげるために、中小企業であっても、多彩な事業を創っていきたい。うちは、もともと男くさい会社ですが、女性にどんどん力を発揮してもらえる事業や職場を作っています。事業ありきで人を雇うのではなく、人が事業を創る。そんなふうに捉えています」

事業フィールドの範囲を絞らず、どんな分野にも果敢にチャレンジしようという多角化路線は、多様な個性を持つ社員の活躍の「場」を拡げたい、との思いがあるからだ。

そして、インタビューの終わりに、平林はこれからが楽しみだと語った。世の中が変化に富み、明日の姿もわからないほど激しく移り変わるいまだからこそ、楽しみなのだと。

「うちは平均年齢が20代半ばで、新卒入社もリーダーとして活躍するようになりました。だから時代の変化もこわくありません。変化が激しいほど、うちの社員はきっと力を発揮してくれる。そう信じて、いまからワクワクしているんです」

(談:株式会社オールフロンティア 代表取締役 平林拓郎)

代表の平林の生い立ちと事業の軌跡を辿ってみましたが、いかがだったでしょうか。

みなさんの心の中にオールフロンティアの歩んできた軌跡と、事業スピリッツは届いたでしょうか?

人オールフロンティアの今後の活躍と成長にご期待ください!